今度の奇跡体験!アンビリバボーは、異国の地で英雄になった日本人が紹介される。

その日本人の名前は加藤明

異国の地で「ペルーの英雄」とまで言われた人物である

今まで全く聞いたことのないこの人物。

いったいどのような人物なのか調べてみることにした。

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加藤明プロフィール

生年月日:1933年1月3日

出身:神奈川県小田原市

学歴:慶応大学法学部

経歴:

1955年 八幡製鉄入社

1960年 八幡製鉄チームの主将となり、世界選手権に出場する。

1961年 引退

同年 慶應の監督に就任

1964年 全日本大学選手権で優勝

当時の慶応大学は非常に弱かったらしい。

だが、それをわずか3年で優勝に導いた手腕はすごい。

選手としても一流であったが、監督としても一流だといえる。

 

加藤明が監督を務めたペルーの女子バレーの実力は?

1965年ペルーの女子バレーボールは世界的にみると実力はかなり低く、ペルーの女子チームは白人のお嬢様が趣味程度しか練習しないレベルだったという。

ペルー政府は何とかして強化しようと、指導者を探していた。

そんな時、白羽の矢が立ったのが加藤氏である。

加藤は勤めていた八幡製鉄を休職し、2年間だけという期限付きでペルーにわたることとなる。

加藤氏が真っ先にやったことはメンバー集め。

それまでのチームにいた白人選手を次々に辞めさせ、残った貧しい先住民系出身の選手に対し、ペルーバレー界の将来を託すべく、連日、鬼気迫るほどの練習を行った。

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当然、反発もあった。

だが、加藤氏は、戦争で焦土と化した日本が夢と希望を失わずに今日の隆盛を勝ち得たのは、日本人の「努力」と「礼節」によるものと説明、少しずつであるが選手や周りの人たちも理解していったという。

そして2年後、東京で世界女子バレー選手権が行われた。

だが、ペルーの成績は出場国中最下位。

会社は帰国を迫ったが、結果に納得がいかなかった加藤氏は任期の延長を訴える。

会社は1年を条件に延長を認めた。

 

加藤氏が帰国するまで残り1年間。

選手たちはそのほとんどを練習に費やす。

わずか2年前、ほとんど勝てなかったチームが、実力をつけ始めた。

そして1968年メキシコオリンピックにて見事ペルーは4位入賞を果たした。

「野蛮な監督」が「ペルーの英雄」に変わった瞬間であった。

加藤の次の目標は

「世界最強の日本チームに勝つこと」

加藤氏は会社を辞め、ペルーに永住する決意を固めたそうだ。

 

だが、その加藤氏を病が襲う

急性肝炎だった。

やむなく監督を辞任。

そして1982年3月20日。

翌年ペルーで世界選手権が開催されることを喜びつつ、49歳の若さで亡くなった。

その日、サッカーの国内リーグが開催されていたリマのスタジアムに「アキラ・カトウ死す」の速報が流れると、熱狂していたスタジアム中は途端静寂に包まれ、次の瞬間、どこからともなく涙する声に包まれていったという。新聞は、「ペルーは泣いている」と見出しをつけ、最大級の哀悼の意を示した。

引用:http://blogs.yahoo.co.jp/seizoh529/46350502.html

彼の葬儀には当時の大統領も参列し、哀悼の意を掲げた。

加藤氏のお墓は?

彼のお墓は以前はリマ市旧市街のエル・アンヘル(天使)墓地の正門をくぐり、数十メートル歩いた場所に建てられた。

墓石は82年、ナショナル・チームのメンバーやOGたちが作ったという。

ところが歳月とともに、墓石はすっかり傷んでしまい、現在その場所には台座も残っていないという。

その後、一旦は日本大使館公邸内に墓を移転しようという話が持ち上がる

現地側にとってみれば、加藤明はそれほどの人物であった。

結局、2000年11月3日、エル・アンヘル墓地の墓はリマ市郊外の公園墓地に改葬する一方、一般の「参拝」用として、大使公邸の眼前の緑地帯に、加藤明の記念碑が建てられた。

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いまでは加藤氏の名前を知る人も少なくなったという。

 

まとめ

彼の死後、ペルーで初めて行われた女子バレーボール世界選手権(1982年)、ペルーは決勝で日本を下した。

実際に彼がペルーのバレーにかかわった時間はそれほど長くない。

だが、彼は強烈な印象をペルーに残した。

そのペルーだが、現在、世界ランク23位。

ぜひ活躍を期待したい。

加藤氏のためにも。

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